[イッツ・スタッフ企業紹介]
『人to人』をキャッチコピーに、アパレル等の販売職を中心とした総合人材サービス会社
社名は言いやすく覚えやすい英語の「IT’S」 と 大塚 「イツ」 とのダブルミーニングに
「何かやりたい!」
起業したい一心で、がむしゃらに働いて「創業資金」を稼いだ20代
1945年生まれの私は、日本の戦後70年の歴史と共に年を重ねてまいりました。
急速に日本経済が発展していった20代、「私も何かやりたい」という思いで上京。
初任給3万円、5畳一間のアパートからスタートしました。
とにかく「起業したい」とその一心で、昼も夜もがむしゃらに働きました。
資金を貯めながら、一方で「自分でできることは何だろう?」と考えているなかで仕事を通じて知り合ったのが、アパレル業界の方々でした。
アパレル業界を知ったのはこの時です。
「何かやりたい」の「何か」を模索していた頃だったので、洋服好きなことや、サービス業は私に合っているなと感じていたこともあり、アパレル業界にとても興味を持ちました。
そして、アパレル業界の知り合いから「現場での経験が今後に絶対活きるよ」とアドバイスをされ、某百貨店のメンズファッションアドバイザーとして転職したことが創業のきっかけとなりました。
「アパレルの世界で何かできないか?」
少資金でも、女性でも独立してできることは何かを模索した30代
アパレル業界に飛び込みましたが、漠然とした好きでしたので、この「好き」と「ビジネス」をどう結び付けられるのか。
現場で経験を積みながら日々模索していくうち、少資金で、なおかつ女性でも独立してやれる人材ビジネスをやりたいと考え始めるようになりました。
小さい世界ですが、当時既にアパレル業界ではマネキン業は認知されており、「自分でもできるのではないか」と感じていました。
そんな頃、家具関係のマネキン紹介所をやっている方と知り合い意気投合。
「一緒に会社をやろうと」と声を掛けられ、最初の会社「白山マネキン紹介所」を設立することに。
資金作りと現場経験に10年の歳月を経て37歳での創業でした。
「やっとたどり着いた創業」
給料ゼロからのスタート、軌道に乗せていくために邁進した40代
まずは、会社の土台を作るんだということで、給料ゼロからのスタートでした。
昼・夜のダブルワークをしながら、百貨店での人脈を活かしてお仕事を頂く一方、口コミで登録者を集めるなどして、何とか食べられるようになったのは1年後。
当時を振り返ると、夢を語る余裕もなく、今の現実を軌道に乗せていくことに必死でしたね。
ハードな日々でしたが、それでも大事にしたのは「ひとりひとりと対面で関わること」。
お話をさせて頂く時間を作り、時にはお酒を飲みながら、私の紹介する企業さんにご紹介する道筋を作っていく。
こういうことひとつひとつが喜びでした。
その後、監督官庁がハローワークから労働局へ移管され、派遣がとても身近なものに変化する時代の流れは、私にとって「新しい人材ビジネスが現れた」と感じるものでした。焦りも感じていました。
しかし、白山マネキンを共に立ち上げたパートナーは、今を変えたくないという考えで、未来に向けて変わっていかなくてはと思っている私とは考え方にズレが生じ始めました。
創業から14年目、一緒にやっていくことに限界を感じパートナーを解消。
新たなパートナーと共に別の会社を立ち上げました。
「私も彼のように夜逃げをするのか?」
2度目のパートナーに夜逃げされ、絶望の中で前を向き続けた50代
2番目のパートナーは得意先の営業だった方で、アパレル業界でもちょっと名の知れた有名人。
退職して一緒にやりたいと言われて共同経営に乗り出しましたが、バブル時代を生きた苦労知らずの方で、ある時私の知らない多大な負債をつくり夜逃げをしてしまいました。寝耳に水です。
私が連帯保証した銀行借り入れ、会社のリース機器の残金、売掛金は金融機関に差し押さえられ、負債総額は数千万円。
当時は、一体幾らまで負債が広がるか分からなかった。もう絶望感でいっぱいでした。でもその時、思ったんです。
「私まで彼と同じように夜逃げをするのか?」
できるわけはありません。得意先、社員、登録スタッフのことを考えたら、逃げ出すわけにはいかなかったのです。
弁護士さん、税理士さんに相談しながら、まずは不渡りを出す前にすぐに新しい会社を作り登記しました。
そして、主要な取引先を訪ねて新しい会社に債権譲渡のお願いをしてまわる日々が始まりました。
「大塚さんが悪いわけじゃない。こんなに一生懸命やっている人なのだから、助けてあげて欲しい」手を差し伸べてくれたのは、これまで信頼を築いてきた取引先の皆さんだった
売掛金の差し押さえの内容証明が得意先に届くわけです。
でも、「違法な金利の業者さんだから有効じゃない。
相手にしなくていい」と言って下さる会社さんが何社もありました。
大手のアパレルメーカーさんでは担当者の方が一緒に法務課まで連れていってくれました。
「イッツの大塚さんを助けてやってくれ」と現場の営業担当の方が働き掛けてくれました。
本当に得意先の皆さんに助けられました。
恥かしい話ですが、私も床に這いつくばりました。
ご迷惑をお掛けしたとはいえ、売掛金はうちの売掛金なのですから。
でも、どうしても2社だけは、「罷り通らぬ」ということで取引停止、出入り禁止となりました。
とても悔しかったです。ですが、「会社が倒産するというのはこういうことなんだ」と。
これを経営者の端くれとして噛みしめて背負っていかないといけないんだと改めて思いました。
しかし、マイナスを見ても仕方ない。
売掛金譲渡の件で動いて下さった方々や、「何とか頑張れよ」と仕事をどんどん回して下さる方々に何とか恩返しをしなくてはという思いを支えに、とにかく必死でした。
辛かったんですが、凄くやりがいのある時代でもありました。
どんな時も「人」に助けられ、支えられた
失敗や壁は、それを気づかせてくれた貴重な機会(チャンス)でもあった
取引停止となった2社ですが、5年後からお付き合いが再開し、今では弊社の取引上位のお得様になっています。
この時期の大きな失敗があったからこそ、お得意様との関係性も強まり、経営者として色々なことを学ぶことができたからこそ、今の私があるのだとつくづく感じています。
「失敗は成功のもと」ですね。
本当に人との出会いに助けられ、人に支えられてきたから、乗り越えられたことが沢山あります。
私自身、「人が好き」というのもありますが、つくづく人に関わる人材サービスというお仕事は私に合っているんだなと思います。
人材サービスは、人の一生に深く関わる仕事である
だからこそ、「ヒューマン=人間らしい様、人間味のある様」であるべき
人材サービスは、人の一生に深く関わるお仕事です。
うちでは、現役のスタッフの方の最高齢は77歳、現在46歳の男性は25歳の時アパレルの販売員、30歳で転職。
どちらも弊社の紹介。その後の結婚式にも呼ばれました。
40歳で再転職。現在は私どもの会社の得意先になっています。
3回、4回と出戻ってくる方など、長いお付き合いの方が多いです。
結婚式に呼ばれたり、お葬式にもお伺いすることもありますが、うちにとっては当たり前のお付き合いです。
つくづく、人の一生に関わらせて頂いているなと感じています。
だからこそ、ヒューマンであるべきです。
人を思う心。一番大事なことです。
私にとってはそれが原点です。
とはいえ経営者としては、理想ばかりを追い求めて売上を達成できなければ会社は維持できません。
ヒューマンと売上は決して矛盾するものではありません。
両立は可能です。うちでは売上目標は必達です。笑。
60代は後継者問題と世代交代を実践するとき
70歳まであと数ヶ月。スタッフから人選して10数年私と共に会社をもりたててきた取締役2名を社長、副社長としてバトンタッチをいたしました。
「人to人」の基本理念のもと世代交代は着実に進んでおります。
大塚イツ (オオツカ イツ )
1945年生まれ。北海道出身。短大卒業後京都で1年、東京で2年ほど事務職で会社に勤務。
その後オーストラリアのシドニーに友人を訪ね遊学1年。帰国後飲食業界にて働き資金を作る。
起業前に目指す業界の経験をつけるため、三越日本橋本店のメンズフォーマルウエアのファッションアドバイザーを経験。
37歳で起業。日商簿記商業・工業2級取得、宅地建物取引主任者資格取得。
近年スピードラーニングで英会話、中国人留学生より中国語学習。休日は録画の映画鑑賞、ベランダ園芸とワインを楽しむ日々。
- 座右の銘:「挑戦の終わりは新たななる挑戦の始まり」(池井戸潤「下町ロケット」より)
- お勧めの一冊:堀江貴文著「ゼロ」